豊臣秀吉・羽柴秀吉。
天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)
ご存知、豊臣秀吉です。
石山本願寺の後に巨大な大阪城を建てて
天下を統一すると武士では最高の官位の
太政大臣まで上り詰めます。
しかし弟で右腕だった天下の調整人ともいわれた
豊臣秀長が亡くなると千利休を切腹させ、
我が子の秀頼のかわいさあまりに
後継者の豊臣秀次一族を処刑し、
朝鮮出兵に踏み込むなど結局、
自ら作った豊臣の栄華を破壊してしまいます。
茶々。
永禄12年(1569年)~慶長20年(1615年)
父は浅井長政、母親は織田信長の妹のお市です。後の淀殿です。
お市によく似た美女だったと伝えられています。
父親や母親、弟を秀吉に殺されたので秀吉を恨んでいたとの
説があり本作もそちらを採用しています。
非常に気の強い性格ですが同じく不遇だった妹たちには
優しかったりします。
本作では昌綱らが秀吉の命でてんやわんやの騒動の末に
大阪城に連れて来ますがこれは物語の都合でありますので。
茶々ですが大阪城に着くと両親の仇討ちと隙を見て
秀吉を殺そうとしますが真田昌幸の娘の村松の
怪しい説得手法で改心し秀吉の側室になります。
茶々ですがその後、秀吉の子を二人も産み、
大阪城で絶大な権力を得る事に成功します。
もちろん、秀吉は多数の側室を抱えていたにも関わらず
茶々だけ懐妊したのは当時も色々言われたようですが
詳細は今となっては分かりませんが。
石田三成。
永禄3年(1560年)~慶長5年(1600年)
豊臣秀吉の小姓ですが後に奉行職の筆頭まで上り詰めます。
佐吉と秀吉や昌綱は親しみを込めて呼ばれています。
行政手腕に優れて秀吉の忠実な奉行でしたが秀吉以外には
尊大だったとも言われ豊臣家臣団の中での三成の人望は
あまりなかったと伝わっています。
ただこれはおそらく朝鮮出兵での三成の査定の
厳しさによるのではないかとも思うのですが。
本作では忍城攻めで行動を共にした
同年代の諸将、直江兼続、真田源二郎、大谷吉嗣や
佐竹義宣らとはうまくやっています。
これも関ヶ原では因縁になっていくのですが。
真田源二郎。
永禄10年(1567年)~慶長20年(1615年)
後の真田信繁、真田幸村です。
真田家は武田家の家臣、織田家の家臣、上杉家の家臣と行動し、
北条氏政や徳川家康と争ったために早くから秀吉に
接近していたようです。
なお源二郎の父親の昌幸も策略家で有名です。
昌幸の次男の源二郎は最初は上杉景勝への人質として
生活していますが景勝に気に入られて
上杉家の家臣に景勝は取り立てたかったようです。
その後、上杉家が秀吉の配下に入ると
今度は豊臣秀吉への人質として大阪城に入り、
秀吉の馬周衆に取り立てられたと言われています。
源二郎の姉の村松ですが本作では茶々の侍従になっていますが
物語の都合であります。
ただし、信長への人質として安土城にいた事は
あったそうです。
村松ですが本作では父親の昌幸に似た知略、謀略に
優れた怖い女性です。
真田家の繁栄のため父の昌幸や弟の源二郎と
共に豊臣政権の奥の中枢を目指してうごめきます。
源二郎は晩年、大阪の陣で家康や兄、信之の懐柔をも
断って徳川の大軍と激戦を繰り広げ玉砕し
歴史に名を残します。
なお茶々の方が2歳年下なのですが
同じ年との資料もあるようです。
ちょっとこの辺は作品に反映させたく
考えておりますが。
直江兼続。
永禄3年(1560年)~元和5年(1620年)
本作では昌綱には幼少の頃の名前の与六で呼ばれています。
若い頃、幼年から上杉家の重臣です。
上杉謙信の小姓でもあり、後継者、景勝の小姓、
右腕としても活躍します。
本作でも謙信の関東管領職の継承や関東への復権を目指して
正室のお船の方とうごめきます。
佐野家にもその件で散々絡んできます。
本作では若い頃は信長と会ったり石田三成と親交を深めています。
三成とは同じ年もあって仲が良かったようです。